2008年11月28日金曜日

理解


   
伝統技術の習得は
師弟関係での教育法が多かった

説明もなく理屈も理解できないまま
見よう見まねで憶えたものだ

そしてようやく技術が身につくようになると
いつしか理論が頭に入り
説明すらできるようになっていた

ここまで到達するには
相当な時間を費やしたものだ

理解には頭での理解と体での理解がある

頭での理解は比較的短期間でできるが
体での理解はそう簡単にはいかない

最近は頭の理解が速い人が
増えたように思う
それはそれでいいことなのかもしれないが
頭の理解だけで終わってしまう人が
多いのではないだろうか

頭の中で辻褄が合ってしまうとそこで満足してまう
その先の行動の変化までたどり着くことがない

理解とは行動に反映されるようになってはじめて
理解したといえるのではないか

これは最近の教育が
理論から入ることがほとんどで
理論が終わればそれで合格してしまうような制度に
なっているからではないだろうか

理論一辺倒な教育は

何かを身につけ、何かを学ぶということが
あたかも理論だけ

辻褄合わせの作業であると錯覚を
起こさせてしまうのではないだろうか・・・

体が憶え込むまでは

本当の理解に到達することはできない

体が憶え込む道のりは理論どおりには行かない
効率もよくない、時間がかかるものなのだ

理論一辺倒な教育を受け
学ぶということに錯覚を起こしてしまうと
それ以外の道のりは

受け入れがたいものになってしまう

それゆえ効率の良くなさそうな事態が発生すると
投げ出してしまう人が増えてしまった

ところがいくら効率を追求したところで
  
真の理解を得るには

理屈も理解できずに見よう見まねで憶えていた頃と

同じだけの時間が必要なのだ

      

好み



好きなことは夢中になれて楽しい
   
自分が好きなものと
自分に合っているいるものとが
一致していれば言うことはない

しかし好きだと思いこんでいた物事が
必ずしも自分に合っているとは
限らないようだ

そのため「 好きだ 」という強い思いは
時に自分に合うものを遠ざけてしまいかねない

好きなだけではなく
自分に合っている物事は納得がいくうえ
周囲の人たちにパワーを与えられる

決して自分よがりではないのだ
 
自分に合っている物事は
ちょっと力を入れただけなのにすいすい進んでゆく

イチロー選手は
プロのピッチャーになることを夢見ていた
しかし仰木監督に
 「 お前に合っているのは
  ピッチャーではなく外野だ 」
と言われピッチャーへのこだわりを捨て
外野手としてのデビューを果たす

長年自分は「 これだ 」と思い込んでいたものに
少しだけ冷静な視点を加える・・・

今よりもっと
自分に合うものが見つかるかもしれない
  
  

計画



何事にも計画がいる

未知の領域に入る時は
どんな事態が発生しても対応できるよう
綿密な計画が必要だ

初めてインドへ行ったときのこと

不安要素が多かったので情報をかき集めた
地球の歩き方や経験者の話 ・・・

わかってきたことは最初に降り立つ
深夜のデリー国際空港が危険だということ

ボッタクリ、盗難、置き引き、連れ去り・・・

どの本を読んでも同じようなことが書いてあった

被害者のエピソードも数多く読んだ

そのためか調べれば調べる程不安感は上昇した

そして計画は綿密を極め
どんな事態に遭遇しても対処できるよう
チャート式になった

この場合はこう対処しよう、
こういう事態はこうしよう・・・

しかし不安感はぬぐいされないまま
深夜のデリー国際空港に着いてしまった・・・

結果は630ドルをボラレてしまったのだ

こんなはずではなかったという
予想外の事態が発生・・・
   
綿密な計画は全く機能せず
一瞬でぶっ飛んでしまったのだ

頭は真っ白、相手のなすがまま・・・

何度も読んだはずの
被害者のエピソードそのまままの展開・・・

計画上のシュミレーションに
こだわりすぎていたため
計画外の事態に頭も体も動かなかった・・・
  
物事は行動に移してからではないとわからない
ことが多いのだ

ましてはじめての世界ではなお更だ

わかったことは
計画は綿密にしようとするときりがない

その上計画外の事態が発生した時には
全く役に立たない
   
どんなに不安が強かったとしても
必要以上の細かな計画は意味をなさない
  
  
計画に必要なことは綿密さではなく
不測の事態が発生しても受け止めることのできる
「 ゆとり 」なのだということ

こんな些細なことなのだが
630ドルの”授業料”の
おかげで気がついたことなのだ
   
  
  

共鳴


  
犬の散歩に行った

犬にも相性がある

相性のいい犬同士は鼻をくっつけじゃれ合う

匂いや気配でわかるのだろうか
相性のよくない犬は大通りの反対側にいても威嚇し合う

面白いのは犬の相性がよくない飼い主同士は
どう見てもこれまた相性がよくないのだ

向こうはどう思っているのかは知らないが
とても話かけたいとは思えない飼い主なのだ

波長というものがある

波長の合うものは近くにいる
波長の合わないものは反発しあう

波長がもっと大きなものになると
共鳴ということになるのだろうか

コンサート会場での聴衆の大合唱は
共鳴そのものだろう

本が大量に売れることだって
著者と読者の共鳴によるものだ

歴史を振り返ると

インドにおいて
マハトマ・ガンジーが非暴力の行進をしていた頃

何千キロも離れたアメリカにおいて
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが
非暴力の抵抗をはじめていた

共鳴現象は距離を選ばない

何か特殊な連絡回路で結ばれているかのようだ

人間は何か大きな歯車によって動かされ
目に見えないベルトコンベアによって進んでいる

そして自分で動かし自分で歩いていると
思い込んでいる


こんなことを動物たちはずっと前から知っていたに違いない


  

2008年11月27日木曜日

怒り


  
怒るなとか
怒るとよくないとか言うけれど
やっぱり怒りたい時がある
     
怒りには
怒った直後に体が重くなってくるものと
体が軽くなるものがある

体が軽くなったときは怒って正解だったな思う

重たくなったときはなぜなのか
色々考える
すぐに答えが出る時とそうでない時がある

体が全てを教えてくれる

理屈に惑わされそうなときも体は正直だ
体が重たくなってきたり
肩が凝ってきたら
何と言われようとやめることにしている
   
体が軽くなってきたら辻褄が合わなくても
実行することにしている

怒りに限らずやってしまったことが
正しかったのか間違っていたのかは
体に聴くようにしている
  
この判断法で嫌な思いをしたことは一度もない

体にはまだ動物としてのセンサーが残っているようだ
このセンサーのおかげで
正しかったのか正しくなかったのかが
わかるようになってきた

できれば怒る前にわかりたいのだが・・・
   

2008年11月25日火曜日

想像



物事はほんの少しの見える部分と
多くの見えない部分から成り立っている

親しい友人や家族であっても
実は相手のほとんどの部分を知らないものなのだ

自分が見ているのは
相手のほんの一部分にしか過ぎない

その人がかかわってきた
人間関係や親子関係のことも
実際はよくわかっていない

目の前にいる人は我々の全く知らない
多くの関係や経験を経て存在しているのだ

自分自身に置き換えても同じことがいえる

どんなに親しい関係の人でさえも
自分自身の全ては知らないはずだ

ある一側面だけをもって
人を判断してしまうような人は
違う側面を見せられた途端驚いてしまう・・

怒りだす人すらいる

こうした人は少しでも自分が描いた状態とは
異なった結果になると我慢できないようだ

目に見えない部分をどこまで想像しようとするのか

人間関係において
相手が置かれている状況を想像できる度合いは
そのまま思いやりの度合いにつながってゆく


仮に目の前にりんごあったとする
そのりんごは寒い雪国で育ち
栽培者の血のにじむような作業によって
できあがったものだ

しかしスーパーに置いてあるりんごを見ていても
赤くて丸いという以外何もわからない

何事も自分が見ているのはほんの一部で
物事は目に見えていない多くの事柄から
成り立っているのだ

このことが少しでも頭に入れば
おのずと謙虚な気持ちが芽生えてくる

大切なのは想像力ということになるのではないか
   
  

望遠


 
望遠レンズを使って写真を撮ると
狙った被写体が強調され迫力ある写真になる

しかし少しずつ広角にしてゆくと
何だこんな状況だったのか
という背景が見えてくる

旅行のパンフレットなどを見ると
望遠を効かせた絶妙なアングルで旅心をくすぐる

しかし鵜呑みにしてはいけない

小樽の運河の写真を見たことがあるだろうか

旅行のパンフレットに乗るような絵になる
場所はパフレットにのっているその一画でしかない

おそらく広角でとらえたら
何だこんなところかというような
風景でしかないのだ

日々我々はテレビを見ているが
テレビの画像もまたテレビの枠に収まる
選び抜かれたアングルでまとめられてる

その背景までは我々の眼に届いていない

正確な情報ではないということだ

正確な情報とは自分の目で見て確認したこと

ここからの距離が遠くなればなるほど
情報としての精度は落ちてくるものなのだ
  
   
     

治癒

 
人は何かしらのトラウマをもっていることが多い
人はこのトラウマによって心の形や
偏ったものの考え方をつくってしまう

こうした心の状態や思考法と波長が合ったものが
病気という形でやってくる

病気でない場合は事件や事故
その他のトラブルがやってくる

一時的に痛みが取れたり
症状が軽減したところで何も解決しない

そのため病気やトラブルは
その人に気づきが起きるまで
繰り返しやってくるのだ

治すのは医者でもなく薬でもない

痛みが取れたり、症状がなくなったりする際には
その人が抱えていた問題が解決されたり
間違った人生観や価値観に
「 気づき 」が起きていなければならない

病気が癒える過程で
その人自身が何かをつかみ取った時
初めて「 治った 」といえるのだ

「 治る 」手立てをサポートする
これが本当に医療ではないだろうか・・・

それゆえ治療の行き着く究極は
トラウマからの解放ということになる


   

2008年11月24日月曜日

不変

   
映画「 レッド・クリフ 」を観てきた

三国志「 赤壁の戦い 」

蜀と呉が
同盟を結び
強国魏に立ち向かってゆく

蜀と呉は自分たちの弱さを認め
同盟を結んだからこそ曹操率いる強国魏に
立ち向かってゆくことができたのだ

ここに生き抜くヒントがある

人間はだれしもそのひとなりの弱さがある
この弱さを隠したり否定したりしているうちは
強くなれない    

「赤壁の戦い」が教えてくれていることは
人は自分の弱さを認めることができた時
強く生きてゆくことができるということ

 
三国志の時代から千年以上経った現代
人間が手にする物は凄まじい進歩を遂げた

しかし進歩したのは機械類だけで
人間は何も進歩していない

現代人は機械類と同じように
自分達も進化したものと
錯覚を起こしてしまったのだろうか

自分たちだけで
何でもかんでもやうろうとして
生きずまっているのではないだろうか

子供を5人も6人も育てることが
できたのは皆で育てたからなのだ

人間は三国志の時代と何も変わっていない

弱さ受け入れることが
強く生きて行く秘訣であることに
今も昔も変わりはないのだ


   

2008年11月20日木曜日

防衛


沖縄県慶良間諸島へ行った

那覇よりフェリ-にておよそ2時間

海は世界有数の透明度、魚の群れや珊瑚礁・・・

こんな島で自転車を借りた

自転車には鍵が付いていない・・・

「 鍵はないんですか? 」

「 鍵? いらないよ、大丈夫だから行っておいで 」

島を巡ると鍵をかけている自転車はおろか車や
家も開けっ放しだ

島の人たちにとってはあの車が誰のものか
何てことはすぐにわかってしうのだろうが・・・

この離島では身を守ることにエネルギーを使わない

都会生活で当たり前のように使ってきた
身を守るための時間や労力・・・

2重ロックや防犯ベル、防犯カメラ、警備会社・・・
この島では不要だ

身を守ることにエネルギーを使わないと
エネルギーはどこへゆくのか・・・

それはこの島を見る限り
人々のコミュニケーションに使われている

道を聞いただけなのに話がとまらない
おじぃやおばぁ

自分の家だか他人の家だかわからないような
子供たちの振る舞い

警戒する必要がなくなると
こんなにもゆとりが生まれるものなのか

豊かさといってもいい

慶良間の空気はそんなことを教えてくれた


視点を変えてみると

日本の防衛費には莫大な税金が使われている

東西冷戦が終了すると
旅客機の飛行ルートが変わった

宇宙の平和利用が始まり
カーナビゲーションや衛星放送が普及した

警戒する必要がなくなったら
世界は大きく変わるに違いない


   

2008年11月18日火曜日

眼力


   
皆が行くから

皆が良いというから

だから自分も・・・

それでは
皆が行かないところはどうなのか

皆がよくないと言っていることはどうなのか

こんな人がいた

伊豆にて群発地震が起きていた頃

ホテルや旅館はキャンセルが相次いだ

観光協会は
観光客を呼び込むため必死になっていた

しかし群発地震が収まりつつあったにもかかわらず
観光客はなかなか戻ってこなかった

そんな折この人は伊豆へ旅行へ行った

すると・・・

いつも渋滞するはずの海岸沿いの国道はガラガラ

ホテルに着くと
海の見える大部屋に通されVIP待遇

大浴場は貸切状態・・・
 
受けたことのない最高のもてなしを満喫した

皆が行くから 皆が言うから・・・
この言葉ほどあてにならないものはない

実際、皆がいいと言うようになった頃にはピークを
過ぎてしまったものが多い

皆が良くないと言うものの中には
買い時のものがある

大事なのは自分が判断していいと思うかどうか
この作業を繰り返していかない限り
見る目はついていかない

    

2008年11月16日日曜日

お金



およそ1ヶ月の予定で インドへ行った時のこと
870ドルを持って行った

初めて降り立つインド
玄関口は深夜のデリー国際空港

正直言ってかなりびびっていた

薄暗い空港ロビー
  
ゲートを出た途端 ・・・
 
ヘイ! トモダチ
ナカタ  イチロー シッテル  トモダチ
  
服を引っ張る者 バックを揺する者
ポケットに手を突っ込んでくる者・・・
もう何がなんだかわからない・・
わかっているのは囲まれたということ
  
結論から言ってこの日630ドルをボラれてしまった

果てしなくトホホなインド旅行のスタートとなってしまったのだ

当時インドの物価は安く
宿代や交通費など全部含めて
その後の1ヶ月は19000円しか使わなかった

630ドルという額がいかに大きかったことか・・・

高い授業料になってしまった

何でこんな事になったのか

現場での出来事のこともあるが
旅行後
お金の動きについて考えるようになった

インド旅行に関しては
とにかくお金をかけないで行こうと決めていた

そろえられるものはできるだけ100円ショップで・・・
買っても安売りのスーパーで間に合わす・・・

どうやらこの発想がよくなかったようだ

お金には法則があるのだ

それは
入ったら必ず出て行くということ

仮に100万円入ったら必ず30万円は出てゆく

どんなに抵抗しても30万円は出てゆくものなのだ

つまり必ず出て行ってしまう30万円なのだから
自分の意志で使うのがいい

ただしパチンコやマージャンなどに使うのではなく
将来の自分のため人様のために自分の意志で
使ってしまうのだ
  
自分の意志での出費だから納得がいく
  
そうするとそれ以上の不意な出費は発生しない

歯を食いしばって
1円たりとも出ないように頑張ると
事故や病気やらで
結局30万円出費することになってしまうのだ
歯を食いしばりすぎると
30万円以上の出費になりかねない

どうやらお金にはこうした法則があるようだ

インド旅行を振り返ると
事前準備をケチり過ぎたことが
不意な出費を招いてしまった

その後の旅行へは事前投資をたっぷりしてから
出かけるようにした

それ以来お金に関するトラブルは起きていない
   
   
   

2008年11月15日土曜日

関係(2)



掃除、片付けをやらない人がいる

この人が引越しをした

粗大ゴミやら分別できないガラクタを
大家さんの玄関先に山済みにしてきたそうだ
  
   
この人
離婚歴2回
交通事故で
全治6ヶ月の重症を負ったことがある

関係あるんじゃないか?
  
  

2008年11月13日木曜日

関係


  
こんな社長がいた

この方の話を聞いていると
全てが人の批判、愚痴、批評なのだ

要するに自分が一番偉いということらしい
自分と意見の合わない人は
駄目な人間ということらしい
  
   
この社長
駅のホームから3回転落している

関係あるんじゃないか?
   
     

話題


   
噂話・・・
ひどい目に遭った?
   
ちょっと待てよ

人の話ばかりするなよ

そうなる前にあんた何をやったんだい?
 
そのことが原因じゃないのか

その話をしたらどうだい

自分の話を始めなければ状況の変化は起きないさ

例えて言うなら
北朝鮮が核兵器や拉致の問題を棚上げにして
経済援助しろ
船を寄港させろと言ったって始まらないじゃないか

まずは自分の話をしてみたらどうだい?

できそうになければ相談という形でもいいんじゃないか?
なぜ自分は同じ振る舞いを繰り返してしまうのかと・・・

自分の話をして視野が広がったり視点が増えることは
とても気分のいいことなんだ
    
 

意味



インドへ行った

そこには人々を階級分けするカースト制度が
色濃く残っていた
 
人々は決められた階級の中でしか生きてゆけない
 
最下層の物乞いのもとに生まれたら
一生涯地べたで生きてゆかなければならない
風呂に入ることも 靴を履くこともなく
埃にまみれた真っ黒な体のまま一生を終える

どんなに才能があろうとも決められた階級で
一生を終わらなければならない

そこには努力の入る余地はなく
悲惨としかいいようがない

一方マハラジャと呼ばれる上層階級がある
召使い30人 
1000万以上する高級車に運転手付き
彼らもまた何の才能がなくても
一生涯マハラジャとして生きて行く

彼らの人生はどこの階級に命を授かったかで
全てが決まるといっても過言ではない
もはや運としかいいようがないのだ

こんな世界を知って以来
自分が日本人として命を授かったことは
一つの運であったろうし何かしらの意味が
あるのではないかと考えるようになった
 
   

2008年11月11日火曜日

突破


  
棟方志功記念館へ行った

作品や製作時の映像を見ることができた

彼の第一印象はまさに 「 変人 」

版画を彫っている時は眼球が板に触れそうな距離

話し方や動作もどこか常人とは異なる

味のある、見ているだけでも飽きない存在

そしてあの独特な作風

作品にはねぶたの影響を強く感じた
 
彼のもつ強い個性を当時の社会や学校は
どう受けとめていたのだろうか

彼の才能を認め
支え続けた周囲の尽力は相当なものであったろう


現代の学校や社会は枠に当てはまらない個性を
どこまで受けとめることができるのだろうか・・・・
  
いつの時代もすばらしい才能を秘めながら
世間の常識からは自然と外れてしまう人がいる
  
一見すると「 例外 」と思われることも
とことん磨きこんでゆくと思わぬ光を放つことがある
    
効率化、平均点化を求めすぎると
人間の持つ大きな魅力を失ってゆくことに
なりかねない
 
それは人間のスケールが
規則や常識に収まるものではないからなのだ
   
     

2008年11月2日日曜日

変化



世の中には
変化を好む人と
変化を好まない人がいる

変化を好む人は
物事の原因を自分に求め成長する
 
変化を好まない人は
原因を他人や状況、規則などの外に求め
自身の変化を拒絶する

変化を好まない人に変化を求めることは
犬に猫になれと言っているようなもので
無理な話なのだ

人には2種類のタイプがあるということ

自分はどちらのタイプなのか
またコミュニケーションをとろうとしている相手は
どちらのタイプなのか
その判別ができているとゆとりが生まれる
  
突き詰めていくと変化を好む人と好まない人は
相容れない人種なのかもしれない