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2008年12月15日月曜日

あほ



「 私が兄弟のなかで一番あほだわ 」

80代の女性が言った

「 どうしてですか? 」

「 だって算数もできなかったし英語もだめ
  女学校もびりで卒業だもの 」

この方はお孫さんにも恵まれ
有意義な生活をおくっている

人生を楽しむ術を知り
とても礼儀正しく明るい方だ

僕はこの方がご兄弟の中で
一番賢い方だと思った

              

2008年12月6日土曜日

焦点



子供が学校へ行く時間になると
お腹が痛い、頭が痛いと言ったからといって
お腹と頭痛のことだけを考えていても
何も解決しない

学校に行きたくないという子供の気持ちに
焦点を合わせなければ何もはじまらない

中には
「 うちの子はお腹が弱くて困るんですよ 」
と体調のことしか話さない親もいる

人の本音は行動に現れるものだ

言葉ではなく行動に焦点を合わせること

そうすると複雑に見える人間関係は
もっと簡単になるのではないか

言ってることとやってることが違う人がいたとしたら
やってることを見ればいい
どこに本音があるかわかるはずだ  

とくに切羽詰った時は一目瞭然だ

心に焦点を合わせるともう一段深く
相手を受け止めることができるようになる

親が子供の体調のことしか話さなかった場合
その親の行動や気持ちに焦点を合わせると
そうせざるを得ない背景が見えてくる

何事もどこに焦点を合わせるかで

見えるものは大きく変わってくる


2008年12月1日月曜日

解放


  
心技体とあるが

一番大切なのは心

心がニュートラルになっていなければ
何も始まらない

心の作用が人間の魅力といってもいい

がんじがらめになった
心のたがねを外すことで

天とつながることができる

天のパワーが自分の中にふんだんに入ってくる

こういう時は何でもうまくゆく

ほしいかったものが見つかる
  
電車はベストのタイミングで待っている

信号はすべて青・・・・

心がニュートラルのときは
こうしたことが当たり前のように起こる

こんなときはこれでいいんだな、
このやり方で、この発想でいいのだなと思える

心技体の技術や体調管理も大切だが
心以外にこだわりすぎると
いつまで経っても前へは進めない

心の枠を外すことが先決

「 心の枠 」
これがいつの間に
はめ込まれたものなのか・・・
  
ここがまた恐るべきことなのだ
  
  
  
   
           

2008年11月28日金曜日

理解


   
伝統技術の習得は
師弟関係での教育法が多かった

説明もなく理屈も理解できないまま
見よう見まねで憶えたものだ

そしてようやく技術が身につくようになると
いつしか理論が頭に入り
説明すらできるようになっていた

ここまで到達するには
相当な時間を費やしたものだ

理解には頭での理解と体での理解がある

頭での理解は比較的短期間でできるが
体での理解はそう簡単にはいかない

最近は頭の理解が速い人が
増えたように思う
それはそれでいいことなのかもしれないが
頭の理解だけで終わってしまう人が
多いのではないだろうか

頭の中で辻褄が合ってしまうとそこで満足してまう
その先の行動の変化までたどり着くことがない

理解とは行動に反映されるようになってはじめて
理解したといえるのではないか

これは最近の教育が
理論から入ることがほとんどで
理論が終わればそれで合格してしまうような制度に
なっているからではないだろうか

理論一辺倒な教育は

何かを身につけ、何かを学ぶということが
あたかも理論だけ

辻褄合わせの作業であると錯覚を
起こさせてしまうのではないだろうか・・・

体が憶え込むまでは

本当の理解に到達することはできない

体が憶え込む道のりは理論どおりには行かない
効率もよくない、時間がかかるものなのだ

理論一辺倒な教育を受け
学ぶということに錯覚を起こしてしまうと
それ以外の道のりは

受け入れがたいものになってしまう

それゆえ効率の良くなさそうな事態が発生すると
投げ出してしまう人が増えてしまった

ところがいくら効率を追求したところで
  
真の理解を得るには

理屈も理解できずに見よう見まねで憶えていた頃と

同じだけの時間が必要なのだ

      

2008年11月25日火曜日

想像



物事はほんの少しの見える部分と
多くの見えない部分から成り立っている

親しい友人や家族であっても
実は相手のほとんどの部分を知らないものなのだ

自分が見ているのは
相手のほんの一部分にしか過ぎない

その人がかかわってきた
人間関係や親子関係のことも
実際はよくわかっていない

目の前にいる人は我々の全く知らない
多くの関係や経験を経て存在しているのだ

自分自身に置き換えても同じことがいえる

どんなに親しい関係の人でさえも
自分自身の全ては知らないはずだ

ある一側面だけをもって
人を判断してしまうような人は
違う側面を見せられた途端驚いてしまう・・

怒りだす人すらいる

こうした人は少しでも自分が描いた状態とは
異なった結果になると我慢できないようだ

目に見えない部分をどこまで想像しようとするのか

人間関係において
相手が置かれている状況を想像できる度合いは
そのまま思いやりの度合いにつながってゆく


仮に目の前にりんごあったとする
そのりんごは寒い雪国で育ち
栽培者の血のにじむような作業によって
できあがったものだ

しかしスーパーに置いてあるりんごを見ていても
赤くて丸いという以外何もわからない

何事も自分が見ているのはほんの一部で
物事は目に見えていない多くの事柄から
成り立っているのだ

このことが少しでも頭に入れば
おのずと謙虚な気持ちが芽生えてくる

大切なのは想像力ということになるのではないか
   
  

望遠


 
望遠レンズを使って写真を撮ると
狙った被写体が強調され迫力ある写真になる

しかし少しずつ広角にしてゆくと
何だこんな状況だったのか
という背景が見えてくる

旅行のパンフレットなどを見ると
望遠を効かせた絶妙なアングルで旅心をくすぐる

しかし鵜呑みにしてはいけない

小樽の運河の写真を見たことがあるだろうか

旅行のパンフレットに乗るような絵になる
場所はパフレットにのっているその一画でしかない

おそらく広角でとらえたら
何だこんなところかというような
風景でしかないのだ

日々我々はテレビを見ているが
テレビの画像もまたテレビの枠に収まる
選び抜かれたアングルでまとめられてる

その背景までは我々の眼に届いていない

正確な情報ではないということだ

正確な情報とは自分の目で見て確認したこと

ここからの距離が遠くなればなるほど
情報としての精度は落ちてくるものなのだ
  
   
     

2008年11月2日日曜日

変化



世の中には
変化を好む人と
変化を好まない人がいる

変化を好む人は
物事の原因を自分に求め成長する
 
変化を好まない人は
原因を他人や状況、規則などの外に求め
自身の変化を拒絶する

変化を好まない人に変化を求めることは
犬に猫になれと言っているようなもので
無理な話なのだ

人には2種類のタイプがあるということ

自分はどちらのタイプなのか
またコミュニケーションをとろうとしている相手は
どちらのタイプなのか
その判別ができているとゆとりが生まれる
  
突き詰めていくと変化を好む人と好まない人は
相容れない人種なのかもしれない